2012/3/20

ギャルソン 山下哲也

パリを愛し、パリから愛される、日本人ギャルソン

ギャルソン 山下哲也
ギャルソン 山下哲也

1973年、東京八王子市生まれ。2005年パリの名門「カフェ・ド・フロール」において、フランス人以外で初のメゾン・ギャルソンとなった。2007年には、Newsweek誌において、世界が尊敬する日本人100人に選ばれた。またフランスの人気テレビ番組「Des Racines et des Ailes」で、パリを愛する異邦人として紹介されるなど注目を浴びている。

ギャルソンという仕事

山下哲也は、青山学院大学1年生の夏、外苑前、銀杏並木沿いにあったレストラン「SELAN」(当時はフレンチだったが、現在はイタリアン・レストラン)でウェイターのアルバイトを始めた。何気なしに始めたアルバイトだったがウェイターという仕事は楽しかった。その後やったアルバイトはコンビニの店員、これも意外なことに性にあっていて楽しかった。
「それで気がついたのですが、コンビニによくいらっしゃるお客様はだいたい決まっていて、買う物も毎回だいたい同じものなんですね。そんなところが、コンビニはカフェと構造的に似ているんですね。」
 

「カフェ・ド・フロール」との出会い
「カフェ・ド・フロール」との出会い

そして、その後の運命を変えることになる大学に近い表参道の「カフェ・ド・フロール」にアルバイトとして入った。当時、パリの有名カフェの東京店として人気だった「カフェ・ド・フロール」は、次々に地方支店をオープンさせることを計画、会社は、学生アルバイトながら店の中堅を担っていた山下に、当地のオープンスタッフとして行かないかと白羽の矢を立てた。

「しかし、僕はその頃大学4年生になったばかりで、いよいよ就職活動です。当然のようにいろいろな会社に願書を出していたので、5月オープンの大阪店は、さすがに断りましたが、8月には今度は京都に行かないかという誘いを受けて、夏休みで就職活動に行き詰まっていたこともあり、気分転換にと京都に行くことにしたのです。この時パリから京都店オープンの指導にやってきていた『カフェ・ド・フロール』本店支配人のフランシスと、ギャルソンのミッシェルの仕事ぶりに触れることができ、僕は直感的に『人生、これ(ギャルソン)で勝負しよう』と決心しました。日本では、ウェイターの職業的認知はあまりに低く、自分のようなアルバイトの学生をオープンスタッフに任命する程度のレベルです。男子の職業として確立していない。しかし、パリには本物の誇りあるギャルソンがいる。彼らの多くは、白髪になってもギャルソンを続けています。」山下はフランシスに想いの丈を打ち明けた。

「『カフェ・ド・フロール』で働きたい」と。

フランシスの答えは簡単だった。多くの有名人に愛され長い歴史を持つフランス最高峰のこのカフェは、過去にも先にもフランス人以外のギャルソンは認めない。

フランス人になろう

そこから山下がとった行動はガムシャラなものだった。「フランス人になろう!」人間の身体は細胞でできているのだから細胞ごとフランス人に変えればいいのだ。フランス人と同じものを食べ、ワインはフランス産、水もボルヴィックしか飲まない。フランス人に劣らない身体造りのため、ジムにも通った。そうすると、不思議なことが起こり出した。日本ではあり得ないはずのチップをお客様がくれるようになり、ついには毎月チップだけで4~5万円も稼ぐようになった。山下は、自分だけはパリのカフェと同じように、固定給でなく、100%歩合制にしてくれるよう店に願い出た。売上の12%(パリでは15%)を手取りにするというシステムである。決して社員にはならず、歩合給のギャルソンであることに拘った。
 

待ち続けたパリへの旅立ち
待ち続けたパリへの旅立ち

ところが2001年、「カフェ・ド・フロール」表参道店が閉店、その後友人達と共に小さな店を始めてみたが何か満たされない。何度もフランシスへ電話をかけ、手紙を送った。ついに、フランシスが根負けして「学生として1年間だけパリに来てみては?」と言ってくれたのは、それからさらに時が経った29歳の時だった。すぐに渡仏し、アリアンス・フランセーズ・パリで語学の勉強をしながら、「カフェ・ド・フロール」に立つ日を待ち続けた。

「カフェ・ド・フロール」

壁は厚かったが、フランシスにギャルソンとしてのエスプリがなくなってしまうわないようにと言われ、他の仕事にはつかなかった。転機は2003年に訪れた。
 

控えのギャルソンからメゾンのギャルソンへ
控えのギャルソンからメゾンのギャルソンへ

『ちょうど全仏オープンの最中でしたが、フランシスから電話が入り、お店にテツヤを知っている日本人が来ていると言うんです。急いで店に向かうと、小澤征爾さんがお見えになっていたのです。表参道時代に家族ぐるみでよくいらっしゃっていたのですが、『そろそろパリに立っているはずだ』と立ち寄ってくださったのでした。『マエストロ!』と多くの人に囲まれた小澤さんが帰り際に『テツヤをよろしく頼む』という一言を店に残してくれたおかげで、2ヶ月間期間限定ながら、控えのギャルソンとして初めてフロールに立つことになりました。(註・フロールには常時20名のメゾンと呼ばれるギャルソンと、数名の控えのギャルソンがいる。)2ヶ月はあっという間に過ぎましたが、あの時フランシスはこれで僕も満足して帰るだろう、と思っていたようです。」

小澤氏来店の後、風の便りか、表参道の顧客が10数名も店を訪ねて来てくれたりしたことや、同時に、古参のギャルソンだったジョルジュが年齢のせいで週5日の勤務をこなせない状況になったことが重なって、9月の終わりには無期限に延長して雇ってくれることになり、2005年には、ついに控えのギャルソンからメゾンのギャルソンへと昇格した。

当初は「何故アジア人が?」という冷たい視線などもあったが、フランスの文化的財産であるカフェをリスペクトし、好きだと言ってやって来た異邦人を、同僚達は歓迎してくれた。「オーナー夫妻も、リスクを負ってくれたのだと思います。アジア人を雇うマイナスイメージや店の長い伝統を覆してまで雇ってくれたのですから。」

カフェ

山下は、「カフェは社会の中で最も自由で開かれた場所だ」と感じる。朝から夜まで気が向いた時、何時に来ても食事ができるし、エスプレッソ一杯で何時間でも滞在できる。隣の人の話声もオープンだし、何かの拍子に隣人とコミュニケーションが生まれるという素敵な偶然もある。あらゆる情報が飛び交い、思想や文化が生まれる可能性を秘めている。

「『カフェ・ド・フロール』はインターネットと同じです。その日フランスで起こったこと全てがここで分かる。いつか、もし日本に戻ることがあれば、今の日本にはない、世界中から人や情報が集まるようなカフェを創りたいですね。」
 

Café de Flore(カフェ ド フロール)
Café de Flore(カフェ ド フロール)

 
Café de Flore(カフェ ド フロール)

172 Boulevard
Saint-Germain - 75006 Paris
地下鉄:4番線St-Germain-des-près
TEL:+33 (0)1 45 48 55 26


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