2009/6/24
「レストラン モナリザ」オーナーシェフ 河野 透氏が語る
「トップシェフを目指して」「オージービーフとの出合い」
6月3日(水)、(社)東京都司厨士協会企画事業部は、MLA豪州食肉家畜生産者事業団(主催、以下MLA)、ジャパンフード、シーライン東京の協力を得て、東京湾クルーズ「シンフォニー」でのイベントを催しました。参加者約200人が聴き入った「レストラン モナリザ」代表取締役 総料理長 河野 透氏の「トップシェフを目指して」「オージービーフとの出合い」と題されたレクチャーをご紹介します。
いつか日本の代表にと、夢を描いた高校時代
僕は宮崎県の農家に生まれ、16歳の時に父親が他界し、18歳まで百姓をしながら高校に通いました。学生時代はスポーツ好きでバスケットボール部に入り、毎日10km走りました。身長が低かったのですが、ジャンプ力だけは人並み以上に優れており、垂直飛びで90cm飛べたのです。ラグビー部に所属していたクラスメイトが全国大会でベスト4に入り、学生代表としてオーストラリアに遠征に行くのを見て、僕もいつかは日本の代表として海外に行けたらいいなと思いました。僕がフランスで修行していた時に、彼らは日本代表としてフランスで試合をしていて励まされました。修業の時代に彼らが僕に与えた影響は大きかったと思います。
なぜフランス料理に目覚めたのか?
農業が嫌で手に職をと考え、料理人になれば食いっぱぐれることはないと思い、大阪の辻調理師専門学校へ入学しました。卒業後、5年間修業した中で印象に残っているのは、先輩たちがとっても優しく教えてくれたことです。僕はフランスから帰国した当時は後輩にとって怖い存在だったと思いますが、人が付いてこなくなるので、修業時代を思い出して4、5年前から教育方針を変えています。
今から約30年前の調理場では一斗缶のマヨネーズを30分混ぜ続けたり、5リットルのベシャメルソースを作るのに1時間以上混ぜ続けたり、何十リットルもあるデミグラスソース鍋を1時間も2時間もかき混ぜて沸騰させるという大変な作業をしていました。初任給は6万円、その後の給料も最高で10万円でした。
夢はフランスに行くことでした。この会場にも地方から来ている人が大勢いると思いますが、渋谷の街を歩いていても知っている人が誰1人いないということはさみしいことで、僕もさみしさのあまり1年ほど宮崎に帰ったことがあります。しかし仕事が見つからず、フランスに行くことにしました。宮崎を発つ時、カーフェリーの中で見送りの人が見えなくなった途端に涙があふれて一晩中泣いた思い出があります。
フランス語の勉強は、月に2、3回NHKのフランス語講座をやっていた程度でほとんど話せませんでした。
フランスでジプシーに襲われたのが人生の分岐点
フランスに着いて2日目の朝、ホテルを探しにルーブル駅に行きました。チケットを買った瞬間に、人生で初めての出来事なんですが、ジプシーに襲われました。小さな子どもたちが7、8人で布を持って僕の周りに集まってきてあっという間に取り囲まれ、「ヘルプミー!」と言っても誰も助けてくれず、そのうちポケットに入れていた財布などを全部取られてしまったのです。途方に暮れ、地下鉄に乗らずに地上に出て考えました。フェリーの中で泣いた時に、もう2度と泣かないと決めていましたが、こんな恐ろしい国に住むかどうか1時間以上考えていたところ、なぜか勇気がどんどん湧いてきたのです。その日からパリで一番の和食店でのアルバイトも住むところも見つかり、僕の人生はとんとん拍子に来ています。僕にとってあの時が人生の分岐点で人生を生き抜くパワーをもらったのではないかと思います。
労働許可証を取得するために、片言のフランス語で「仕事をしたい」と言いながら、50軒のフランス料理店を回りました。労働ビザを取って一番初めに「ギー・サボワ」で約1年働いて、次の店の希望を聞かれたので、三つ星レストランの「ジョエル・ロブション」の名前を言ったら3カ月後、ちょうど僕の誕生日の日に決まったよと言われ、嬉しい誕生日になりました。
大きな夢を持って三つ星レストランに入ることができたのですが、今までは考えられないような生き地獄の世界でした。早朝から夜中まで働きづめで、2年半働いた中でランチを食べた記憶がありません。厨房には約20人のコックがいるのにラップやアルミホイルが1本しかなく、冷蔵庫、倉庫、トイレに至るまで鍵がかかっている状態です。仕込みが終わらないまま休憩に行き、戻ってくると冷蔵庫のカギがなくてオロオロしていたらジョエル・ロブション氏が隠していた、なんてこともありました。
スーパーシェフから学んだ様々なこと
その後、「ジョルジュ・ブラン」を経て、スイスの「ジラルデ」に勤めました。ジラルデは三國清三氏が日本人で初めて修業された店で日本人を気に入ってくれて雇ってくれたのです。ジョエル・ロブション氏とフレディ・ジラルデ氏はまったく違う個性を持っていました。ロブション氏は1日分の食材しか買わないので失敗すると、買いに走らなくてはなりません。バターも取り合いです。子供の世界でもそうですが、強い人がいっぱい取って新人の子が取れないので、ロブション氏に「なんでバターを入れないんだ」と言われても、「シェフが買わないので」とはとても言えませんでした。
一方、ジラルデ氏は、食材も道具もふんだんに買ってくれます。余った食材や料理、デザートは捨てて翌日また作るのです。慰安旅行はヘリコプターでモンブランに登ったり、まかないも世界一と思えるぐらい良いものを食べさせていただきました。
両店ともに3カ月先まで予約がいっぱいでそれがブームではなく、10年、15年と続くのがすごいなと思いました。
僕がフランス修業を経て、習得したのは、五感の発達、集中力、察知力、観察力、予知力、技術、自信です。ロブション氏はお客さまが料理を残すと「お前たちが作ったものがおいしくないから残した」と料理人を怒るので、サービスマンがそれをコーヒーの豆を捨てる場所に隠すと、察知力や予知力に長けたロブション氏が見つけてしまうこともありました。
「ジラルデ」で1日2回、スタッフ43人分のまかないとお客さまのお食事60人分をすべて担当した時はきつかったです。ジラルデ氏の犬の食事も僕が担当しており、犬がご機嫌を損ねて食べないとジラルデ氏に怒られて散々でした。
お二人の料理への考え方もまったく違います。ジラルデ氏のコース料理は食材と調理方法を全部変えてまるで会席料理のようでした。ロブション氏は、ラングスティンのラビオリにはトリュフとフォアグラを入れたソースを組み合わせるといったようにすべてが決まっていましたが、ジラルデ氏は、ラングスティンのラビオリには、パセリソース、トリュフソース、サフランソースなど機転を利かせて変えていました。僕はロブション氏だけでなく、ジラルデ氏、ジョルジュ・ブラン氏を観察し、得たことを今、自分の店に生かしています。
試作を繰り返し、完璧を追求するロブション氏
「ジラルデ」で働いていた時、ロブション氏から日本でシャトーレストランをオープンするから一緒にやってくれと言われ帰国しました。それから「タイユバン・ロブション」オープンまでの5年間は、「レストラン ひらまつ」で3年間料理長を務めたり、他のレストランでサービスを学んだりしました。
「タイユバン・ロブション」ではフランスの本店では見られなかった様々な料理を見せていただくことができました。ロブション氏からレシピが送られてくると僕たちが試作します。ロブション氏は何度も試作させて一番良い状態になったものをメニュー化します。ロブション氏自身もフランスでは土日出勤して店に行って1人で試作していたそうです。
料理人にとって大事なのは、火の通し方、味付け
以前から30代で独立を考えていました。修業、シェフを経験して、40代、50代は別の仕事があると思ったからです。一文無しで帰国して6年後、いろいろな方の協力で39歳の時、東京・恵比寿に「レストラン モナリザ 恵比寿本店」をオープンしました。その後、三菱地所さんから丸ビルの36階出店のお話をいただき、6年前に2号店をオープンしました。丸の内店からの眺めは世界一だと思います。
当店はリーズナブルな価格設定なのでお客さまの来店頻度が高く、メニュー変更のペースは速いです。皿は僕が下書きをしてノリタケさんで焼いてもらっています。恵比寿本店で7人のスタッフから始まり、今は約50人のスタッフがいますが、走り回らないといけないので、20代~30代の若手が多いです。
料理人にとって一番大事なことは食材よりも、火の通し方、味付けだと思います。良い食材を使っても、どのタイミングで塩を振り、火を入れるかで味は大きく変わってきます。
2008年には丸の内店、2009年には恵比寿本店共にミシュランの一つ星を獲得できました。世界中で星を獲得しているロブション氏からは「星を取るのは簡単だよね」と言われましたが、私にとっては一つ星を取るのは大変なことです。ミシュランの審査基準は、(1)素材が良いこと、(2)調理レベルの高さ、(3)オリジナリティや個性のある料理、(4)コストパフォーマンスだそうです。個人的には、新しい料理、珍しい料理を作っている店が選ばれていると思います。『ミシュランガイド東京』は英語版もあるので、外国人のお客さまも増えています。
毎日食べても飽きないオージービーフ
2008年2月にMLAさんの計らいでシェフたちとオーストラリア視察旅行に1週間行きました。飛行機に6回乗り、1日中バスに揺られる日もありました。オーストラリアは広すぎるくらい広くて、3000頭の牛がいると言われても、どこにいるか分からないくらい広いところでした。そこで育って、穀物を食べて、食肉になる様子を見て感心しました。
と殺場も見ましたが、衛生面のレベルがとても高いと感じました。旅行中は昼夜肉を食べていましたが、毎日食べてももたれず、消化が良いので、すぐにお腹が空きます。最後の方には、オードブル、魚は食べないで肉だけ食べるようになっていました。今日、皆さんも試食して、帰ってお腹が空いたら僕の言うことは間違いでないと分かるはずです。好きな調理法はタルタルです。和牛は脂っこいのでべとつきますが、オージービーフは味付けをきちんとすれば向いていると思います。当店で出しているのはステーキです。お客さまからは、くせがなくておいしいと好評ですし、コストが安いので助かります。現在は50g~80gの量を出していますが、ちょっと足りないというご意見があるので、恵比寿本店では「何グラム召し上がりたいですか?」とお客さまに伺ってからご提供したいと考えています。
本日は僕の話を聴いていただき、ありがとうございました。
「レストラン モナリザ」
代表取締役 総料理長 河野 透氏
プロフィール
1957年宮崎県生まれ。82年、25歳で渡仏し、パリ「ギー・サボワ」「ジャマン」「ジョルジュ・ブラン」、スイス「ジラルデ」など、屈指の有名店でキャリアを積み、特にフランス料理界のカリスマ的存在、ジョエル・ロブションの愛弟子として従事、薫陶を受ける。90年に帰国後、広尾「レストラン ひらまつ」のシェフを経て、93年にオープンした恵比寿「タイユバン・ロブション」初代日本人シェフを務め、97年に独立。現在は「レストラン モナリザ」恵比寿本店、丸の内店の両店を行き来し、厨房で指揮を執る。